聖書には誤りは含まれていないのですか

2011年 12月 19日

Q クリスチャンの友人が、「聖書は霊感を受けて書かれている」と言っていましたが、それはどういう意味ですか。聖書には誤りは含まれていないのですか。

 

A 最近は、「霊感」というと「霊感商法」が連想されますので、この言葉には否定的な印象が付きまといます。しかし、これは本来あってはならないことです。「霊感」を正しく理解することは、聖書に取り組む姿勢を正すことにつながります。

先ず、「啓示」という言葉から見てみましょう。神は人類に語っておられます。これを「啓示」といいます。啓示には、一般啓示と特別啓示があります。

(1) 一般啓示とは、自然を通した啓示や歴史を通した啓示です。さらに、人間の内面(良心)を通した啓示もあります。これらの一般啓示には、限界があります。一般啓示は、救いの道を示してはいません。また人間には、一般啓示によって示された真理を歪めてしまう性質があります。

(2) 特別啓示とは、神からの直接的な語りかけのことです。受肉(神が人となられたこと)は、特別啓示の中の特別啓示です。イエスを見た者は、父を見たのです(ヨハ14:1~9)。さらに、書かれたことば(聖書)による啓示があります。これによって、一般啓示を正しく理解することができます。今日の私たちにとって、これが最も重要な啓示です。

 

神のことばである聖書に誤りはありません。それを保証するのが、「霊感」という概念です。天理教や大本教では、教祖が神のお告げを書き記した文書を「御筆先」といいます。その場合、記者は神の啓示を書き記す道具になっているわけです。これは、聖書が教える「霊感」とは異なります。

霊感を示す聖句として最も重要なのは、次のものです。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(2テモ3:16~17)。「神の霊感による」と訳されている言葉は、ギリシア語で「セオプニューストス」です。「神の息が吹き込まれている」という意味です。この言葉は、書かれた結果が間違いのないものであることを保証しているのであって、それ以上でも、それ以下でもありません。霊感に関しては、以下の点を理解しておきましょう。

(1)聖書には、二重著者という概念があります。神が第一次的な著者であり、人が第二次的な著者です。

(2)神は、著者の特徴、経験、文学形式などを用いて御心を啓示されました。それゆえ、聖書には多様性と統一性があります。それが「御筆先」と根本的に異なる点です。

(3)誤った霊感説がいくつかあります。「機械的(口述筆記的)霊感説」では、神は著者の執筆活動を完全に支配し導いた、とされます。「概念の霊感説」では、概念は霊感を受けているが、すべての言葉が霊感されているわけではない、とされます。この説は、神の霊感の度合いを引き下げる考え方です。「部分的霊感説」では、聖書の各部分には霊感を受けている度合いの差がある、とされます。もしそうなら、人間が最終的な判断を下すことになり、問題が起こります。以上の3つの説は、すべて間違っています。

 

最後に、「霊感」を受けて書かれたのは、原典だけであることを覚えましょう。つまり、「原典において、聖書は誤りなき神のことばである」ということです。では、私たちが読む翻訳された聖書には、権威はないのでしょういか。そんなことはありません。今、原典が保存されているわけではありませんが、何千という写本群の研究により、原典の内容が99%以上回復されています。そこから種々の言語への翻訳がなされています。翻訳文は霊感を受けているわけではありませんが、原典の内容を現代人に理解できるように別の言語に置き換えているので、そこには権威があります。翻訳上の過ちがあったとしても、それは実に微々たるものです。また学者たちは、原典の意味を正確に伝えるように、常に翻訳の改善に取り組んでいます。私たちとしては、安心して手元にある聖書を権威あるものとして読めばよいのです。

Posted by 中川健一 | 5 コメント

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  • [謝罪]反映されていないと思い、繰り返しクリックしてしまい、同じメッセージを3度投稿してしまいました。
    申し訳ございません。

    投稿者: 奈良大和, 28/03/2015 2:00am (2 年 前)

  • 信仰を得たい方、信仰に興味のある方、信じて間もない方、信じてたと思っていたけど自信のない方への回答としては、上記回答はとても有益で、愛がこもっていると私は思います。実際、私も、自分は罪人で神は正しい方だと認め受け入れ、「上から目線」で聖書を読むことをやめ、「私にはまだわかりません。どうか悟らせてください」と祈り求めるようになってはじめて、内に住まわれる聖霊の導きにより、多くのことが理解できるようになりました。高ぶった考えでいた頃わからなくて躓いていたことが、不思議なことですが、心に染み入るように素直に理解できる。神が「心の板に書き記す」というのは本当です。神の恵みと主のとりなしに感謝します。

    ※以下、楠さんのコメントに対してコメントします。
    法学の学者さん(?)のようなご意見だと思います。学問として聖書を研究されるのであれば、部分的にはごもっともにも見えるご意見だと思います(ただし、上段と中段が自己矛盾しているように思いますが…)。
    しかし、上記Q&Aの根本的な目的を考慮すれば、いささか的外れなご指摘なのでは?法学の議論をしているわけではないのですから。(もしかしてご自身の知識やお立場、ご経歴が素晴らしいのでしょうか…)

     あなたのコメントを読まれた方が、もし信仰においてまだ弱い方であったとしても、恵みにより躓くこと無く救いを得られますようお祈りします。
    また、あなたご自身も、信仰により恵みと平安を得られますように。世におけるご活躍の中にもまことの愛が流れ出ますように。

    投稿者: 奈良大和, 28/03/2015 1:55am (2 年 前)

  • 信仰を得たい方、信仰に興味のある方、信じて間もない方、信じてたと思っていたけど自信のない方への回答としては、上記回答はとても有益で、愛がこもっていると私は思います。実際、私も、自分は罪人で神は正しい方だと認め受け入れ、「上から目線」で聖書を読むことをやめ、「私にはまだわかりません。どうか悟らせてください」と祈り求めるようになってはじめて、内に住まわれる聖霊の導きにより、多くのことが理解できるようになりました。高ぶった考えでいた頃わからなくて躓いていたことが、不思議なことですが、心に染み入るように素直に理解できる。神が「心の板に書き記す」というのは本当です。神の恵みと主のとりなしに感謝します。

    ※以下、楠さんのコメントに対してコメントします。
    法学の学者さん(?)のようなご意見だと思います。学問として聖書を研究されるのであれば、部分的にはごもっともにも見えるご意見だと思います(ただし、上段と中段が自己矛盾しているように思いますが…)。
    しかし、上記Q&Aの根本的な目的を考慮すれば、いささか的外れなご指摘なのでは?法学の議論をしているわけではないのですから。(もしかしてご自身の知識やお立場、ご経歴が素晴らしいのでしょうか…)

     あなたのコメントを読まれた方が、もし信仰においてまだ弱い方であったとしても、恵みにより躓くこと無く救いを得られますようお祈りします。
    また、あなたご自身も、信仰により恵みと平安を得られますように。世におけるご活躍の中にもまことの愛が流れ出ますように。

    投稿者: 奈良大和, 28/03/2015 1:53am (2 年 前)

  • 信仰を得たい方、信仰に興味のある方、信じて間もない方、信じてたと思っていたけど自信のない方への回答としては、上記回答はとても有益で、愛がこもっていると私は思います。実際、私も、自分は罪人で神は正しい方だと認め受け入れ、「上から目線」で聖書を読むことをやめ、「私にはまだわかりません。どうか悟らせてください」と祈り求めるようになってはじめて、内に住まわれる聖霊の導きにより、多くのことが理解できるようになりました。高ぶった考えでいた頃わからなくて躓いていたことが、不思議なことですが、心に染み入るように素直に理解できる。神が「心の板に書き記す」というのは本当です。神の恵みと主のとりなしに感謝します。

    ※以下、楠さんのコメントに対してコメントします。
    法学の学者さん(?)のようなご意見だと思います。学問として聖書を研究されるのであれば、部分的にはごもっともにも見えるご意見だと思います(ただし、上段と中段が自己矛盾しているように思いますが…)。
    しかし、上記Q&Aの根本的な目的を考慮すれば、いささか的外れなご指摘なのでは?法学の議論をしているわけではないのですから。(もしかしてご自身の知識やお立場、ご経歴が素晴らしいのでしょうか…)

     あなたのコメントを読まれた方が、もし信仰においてまだ弱い方であったとしても、恵みにより躓くこと無く救いを得られますようお祈りします。
    また、あなたご自身も、信仰により恵みと平安を得られますように。世におけるご活躍の中にもまことの愛が流れ出ますように。

    投稿者: 奈良大和, 28/03/2015 1:53am (2 年 前)

  • 「聖書がすべて神の霊感による」と聖書に書かれている、そのことが「聖書は神のみことばで誤りはありえないことの保証になっている」とは、いやはや強引というよりも全然証明になっていないと思うのですが(笑)私でさえ、なにか本を著して「この本は神の霊感によって書かれたものです」と書くことはできます。その手の手法で自著に自ら“お墨付き(権威)"を付与することは古代の著作においてはよくあることです。
    聖書に収録された書々はそれぞれ(当たり前ですが)私たちと同様に生きた人間がそれぞれの思想に基づいて書いたものです。中には、ひとつの著作であっても複数の著者が執筆したと考えられている書も少なからずあります(イザヤ書他)。新約聖書に収録された四つの福音書をとっても、それぞれ描き出すイエス像は特徴が異なっており、各書の著者の思想がそこに反映されています。共観福音書といえどもマタイのイエスとマルコのイエスは随分と異なっています。これがヨハネのイエスとなるともう殆ど別人です。
    別に私は逐語霊感説を信じる方のその信仰を一々否定するつもりは全くありません(信仰と学問は別次元です)が、これをお読まれになる方が、このような(現在ではどちらかというと特殊な)考え(聖書感)をキリスト教徒のスタンダードと思われては、キリスト教の一面を全体と誤解してしまうことになるのでコメントさせていただきました。聖書そのものが多様な思想で彩られているように、聖書に対する考えや解釈にも多様性があるのはむしろ当然だと思います。
    自らの聖書解釈を「唯一絶対の真理」として、異なる聖書解釈を排斥する姿勢は、聖書を精神的に"私物化"あるいは"矮小化"し、逆に聖書を貶めているように私には思えます。お互いに、せめて尊重できないのならば、否定もしない、そうした謙虚さが大切だと思います。

    投稿者: 楠茂樹, 21/09/2014 2:50am (2 年 前)

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