礼拝の意味

2012年 2月 22日

Q 聖書研究の席で、ある人がこういう感想を述べました。「神様はなぜ、そんなにほめられたがっているのかな。俺なんか、ほめられたいとは思わないけど」。この男性はクリスチャンです。何かおかしいと思うのですが、どう答えたらいいのか分かりません。助言をお願いします。

 

A この男性の疑問は、礼拝の意味を理解していないことから来るものです。そこで、「なぜ礼拝が重要なのか」について考えてみましょう。

神は創造主であり、私たちは被造物です。人間は創造の冠として、神の「かたち」に似せて造られました。創造主と被造物の関係は、メーカー(製造会社)と製品の関係に似ています。ガソリン車の仕様で製造された車は、ガソリンで走ります。そこにサラダオイルや原油などを入れると、エンジンが破壊されます。人間もそれと同じです。車に燃料が必要なように、人間も生きるためのエネルギーを必要としています。つまり、人は何かに満たされなければ動かない、ということです。

そう言うと、無神論者からは、「自分は神を信じていないし、なにものにも依存していない。自力で生きている」という反論が返って来そうです。しかし、その反論は正確ではありません。どんな人にも、その人を動かしている動機というものがあります。富、名誉、快楽、アルコール、あるいは、人間の手で作った神々などが、それです。一番大切にしているものが、その人にとっては「神」になっているのです。聖書は、真の神以外のものを第一にしていることを、偶像礼拝と呼びます。麻薬中毒は、偶像礼拝の極致です。

アダム以来、人類は真の神に背を向け、偶像に依存する道を歩み続けています。そのため、エンジン(人間性)が破壊されているのです。それを元通りに回復するためには、純粋な燃料が必要です。真の神を礼拝することこそ、その燃料を受け取る方法です。私たちが礼拝してもしなくても、神は神です。むしろ礼拝は、私たちの人間性を回復するために不可欠なものなのです。

話は変わりますが、私は5年ほど前からゴルフを始めました。コースに出る機会はさほど多くはありませんが、練習が比較的好きで、週に一度は打ちっぱなしに行くことにしています。しかし、なかなか上達しません。5年間の練習で、恐らく何万個かのボールを打ったと思いますが、納得できる玉、これがゴルフのスイングだと思える球を打ったことが、まだ一度もありません。今は、「その一発」を楽しみに練習しています。さて、私はクリスチャンになって40年以上になります。これまでに何度礼拝を捧げてきたことでしょうか。しかし、いまだに、「その一発」と思えるような礼拝を捧げた記憶がありません。そのような礼拝は、恐らく天においてのみ可能になるものなのでしょう。真の神を礼拝することが人間性の回復の方法であるとするなら、完ぺきな礼拝を捧げることは、救いの完成を意味します。地上の礼拝は、「その一発」の先取りであり、それに向けての予行演習です。

Posted by 中川健一 | 0 コメント

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