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ラビたちの教えに対する反論

#12 イザヤ53章 : イスラエルの民か、イスラエルのメシアか

旧約聖書の中で、イザヤ53章が最も重要なメシア預言の章のひとつであることに疑いの余地はない。と同時に、この箇所は、ラビ達にとって最も厄介な章のひとつでもある。なぜなら、この章は、メシアがご自分の民に拒否され、苦しみを受け、人類の罪のために死ぬと明確に預言しているからだ。ナザレのイエスがこの預言を成就して以降、ラビ達の間で、この章の解釈を巡って大混乱が起きた。この混乱に終止符を打つために、今から千年ほど前に、イザヤ書53章はメシア預言ではないとする、この章全体の再解釈の試みが始まった。

 

「再解釈する」とはどういう意味かと、疑問に思う人もいるだろう。実は、千年前までは、イザヤ53章はメシアを指し示しているというのが、イスラエルの賢人達全員の共通理解だった。現代のラビ達は、この章はイスラエルの民を指していて、メシアのことではないと言っているが、これは比較的新しい考え方である。「moreshet.co.il」というウェブサイトに、イザヤ53章はイエスを指し示しているのかとの質問に対するラビ・ハイム・ラティグ(訳注: 現代のラビ)の回答が掲載されている。このサイトで彼の回答の全文を読むことができるが、以下の論理展開に注目して頂きたい。

「あなたの質問を読んで、微笑んでしまった。主のしもべは、屠り場に引かれていく羊のようだと描写されているが、その描写に当てはまるクリスチャンなど、どこにいるだろうか。イザヤが ユダヤ教の出来事ではなく、キリスト教の出来事を預言することなど、あり得ない。イザヤの預言はイスラエルの民についてのものだ。何世代にも渡って、ユダヤ人は 自らを罪なき子羊として献げてきた」

 

このラビは イザヤの預言がキリスト教の出来事や外国のクリスチャンについて預言することなどあり得ないので、イエスがメシアであることなどあり得ないと主張している。この主張に見られる皮肉が お分かりだろうか。ラビ達は イエスの名を歪めて「クリスチャンであるイエス」(ヘブル語ではイェシュア・ハノツリ)に変えてしまったが、イエスは外国のクリスチャンではなく、イスラエルの地で生きたダビデの家系のユダヤ人だ。さらにこのラビは、イザヤ53章はメシアのことではなく、自らを罪なき子羊として献げてきたイスラエルの民のことを語っているものだと主張する。しかし、イザヤ53章の預言をこのように解釈するのは、今から千年ほど前に突然始まったことで、古代のユダヤ教の賢人達は、それとは対照的に、イザヤ53章をメシア預言だと解釈していたのである。果たして、どちらの解釈が正しいのであろうか。

 

私達は イザヤ53章について別の動画で詳細を解説しているが、以下に、私達と同様にイザヤ53章をイスラエルの民ではなく、メシア個人についての預言と解釈した賢人達の著作の一部を取り上げてみよう。

 

*タルグム・ヨナタンは、タルムード時代以降のエルサレムに起源を持つ旧約聖書のアラム語訳で、イザヤ53章はメシアのご性質を表しているとの立場を取っている(訳注:学者ヒレルの一番弟子ヨナタン・ベン・ウジエルが、聖書の中の預言書をアラム語に翻訳したもの)

 

*タルムードの中で、イザヤ53章をイスラエルの民全体のことだと記述した箇所は無い。

 

*トラクテイト・ サンヘドリン98とソター14は、イザヤ53章をメシアの描写だと解釈している。

 

*ミドラッシュ・ラバ5:1、ミドラッシュ・タンフマ、ミドラッシュ・コネンは、イザヤ53章をメシアのことだと解釈している。

 

*ヤルクト・シモーニ4は、イザヤ53章をメシアの描写だと解釈している。

 

*ユダヤ教の祈祷書に収められている贖罪の日の祈祷文は、イザヤ53章をメシアの描写だと解釈している。

 

*ユダヤ教神秘主義思想の本ゾハルも、イザヤ53章はメシアの描写だと解釈している。

 

*クリスチャンと討論をした経験を持つラビ・サーディア・ガオン(訳注:10世紀バビロニアの高名なユダヤ教神学者)でさえ、イザヤ53章はイスラエルの民全体のことではなく、ひとりのお方を指しているとの立場だ。

 

このように、ユダヤ教の源、ユダヤ教の権威と認められる正統的な考え方の中に、イザヤ53章はイスラエルの民全体のことではなく、ひとりのお方を指しているとの解釈が、ほぼ満場一致で見られることが分かる。もちろん、そのお方とはメシアである。

 

 前出のラビ・ラティグは、イスラエルの民を「罪なき子羊」だと言ったが、イスラエルの民を、この聖書箇所に出てくる罪なき子羊だと考えることは出来るだろうか。

「罪なき子羊」を聖書的に定義すると、罪も傷もない人、間違った判断をしたことがなく、悪を行なったことも罪を犯したこともない人、完璧な人、きよい人であり罪の要素がない人である。私達イスラエルの民は、本当にこの定義に当てはまるだろうか。この問いに答えるためには、新聞を読んだり、ニュースに耳を傾けたりすれば充分だろう。しかし、こういった議論がイザヤ書から始まったので、イザヤ自身の意見も聞いてみよう。イザヤがイスラエルの民に対して 何と語っているかに注目して頂きたい。

「実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れている。あなたがたの唇は偽りを語り、舌は不正を告げる。義をもって訴える者はなく、真実をもって弁護する者もいない。空しいことに頼り、嘘を言い、邪悪をはらみ、不正を産む。彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇がとび出す。そのくもの巣は衣にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、暴虐の行いがその手にある。その足は悪に走り、咎なき者の血を流すのに速い。その思いは不義の思い。暴行と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公正がない。自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない」(イザ59:3-8)

 

ひとつ確実に言えるのは、私達の同胞、イスラエルの民を「罪なき子羊」だと宣言するのは、あり得ないということである。

長い間、ラビ的ユダヤ教の指導者たちは、イザヤ53章の預言について質問されると、対応できずバツの悪い思いを何度もしてきた。その結果、何が起こったのか。このことに関して、17世紀のユダヤ教の歴史家ラファエル・レヴィは、次のように記している。「かつては、シナゴーグでイザヤ53章が朗読されていたが、この章を巡って様々な意見が出て大混乱が生じたため、最もシンプルな解決策として、ラビ達は、シナゴーグで朗読されるハフタラー(訳注: 週ごとにトーラーの朗読の後に朗読される預言書の部分)からこの章を取り除いた」

もちろんこの削除は、あなたの目からイエスを隠すために、ラビ達が決めたことである。だから今、イザヤ53章を手に取って、ぜひ自分自身で確かめていただきたい。

月刊紙:2019年2月号掲載

松村慶子 訳  中川健一 監訳

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