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ラビたちの教えに対する反論

#3 宗教家 V.S. 罪人(抄訳)

洗脳から探求へ

世界には多くの宗教があり、それぞれが我こそ真の宗教であると主張している。そのため、多くの人が神の存在さえ疑うようになっている。とは言え、宗教の乱立状態は、自分たちよりも大いなる存在がおられるとの「内なる気づき」を示す証拠でもある。
一般論として、宗教には私たちを神に導く力があるのだろうか。宗教とは、諸規定を体系化したもので、例えば、何を着るか、何を食べるか食べないか、どのような儀式を行うか、などを定めたものである。その宗教には、私たちの心を変え、私たちを神に導く力はあるのだろうか。

 

放蕩息子のたとえ話

イェシュアの周りには二種類の人間がいた。宗教熱心な人と罪人だ。宗教熱心な人は、傲慢でうぬぼれており、人間の言い伝えを守れば神に到達出来ると信じていた。罪人は、神には関心がなく、他者を犠牲にしてでも裕福になりたいと考えていた。その彼らに、イェシュアは「放蕩息子のたとえ話」を語られた。

「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん、私に財産の分け前を下さい』と言った」(ルカ15:11〜12)

父親の存命中に相続財産を求めるのは無礼である。実際のところ、弟は父親にこう言っているのである。「僕としては、お父さんがいつ死んでも構わないよ。欲しいのは、お父さんの財産だけだから」

「それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。・・・彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、・・・」(ルカ15:12〜16)

豚の餌を食べたいと思うような暮らしは、ユダヤ人にとっては、これ以上落ちぶれようのない屈辱的な状態である。そこに至って、弟は我に返る。彼は、自分がこれまで罪深く反抗的だった事実を認め、父親の元に帰って、雇い人の一人にして欲しいと願うことにした。ところで、雇い人は主人の家の外に住み、毎日、仕事のために通うものだ。彼は、働いて賃金を得て、負債を少しずつ返済しようと考えたのである。

「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」(ルカ15:20)

古代中近東では、父親が子供のように走るのは品位に関わることであった。しかし、この父親は息子に駆け寄り、口づけし、抱きしめた。息子は、

「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私はあなたの子と呼ばれる資格はありません」とわびた(ルカ15:21〜22)

普通の父親なら、こう言ったはずである。「二週間もシャワーを浴びていないだろう。おまえ、豚の臭いがする。ひと風呂浴びてから出直してこい」。現代のユダヤ人の父親なら、こんな感じだろう。「悔い改めたいなら、テフィリン(経札)を付け、ヤルムーク(キッパ)をかぶり、数週間シナゴーグ(会堂)に通いなさい。今後のことを話し合うのは、それからだ」
ところが、この父親は、そうではなかった。彼は、最も上等な長服(祝いの時に着る上着)をしもべたちに持ってこさせ、悪臭を放っている息子に着せた。長服は、それを着る者の栄誉と威光を表す物だ。つまり、父親は自分の力と権威を用いて、息子の過去の罪を外套ですっぽりと覆ったのである。そして父親は、息子の悔い改めを祝して宴会を開いた。

 

悔い改めの本当の意味は

現代のユダヤ人たちは、腕に革紐を巻き付けることや、頭に丸い形の布をかぶることを、「悔い改め」だと思っている。しかし、「悔い改め」の本来の意味は、自分の行った悪事を心から真摯に嘆き悲しむことである。父親が弟にどう対応したかを見れば、父親の恵み、あわれみ、愛を理解出来るようになる。父親は、息子の過去の咎を喜んで赦し、それを自ら贖った。また、宴会を開くことで赦しのメッセージを伝えた。「おまえには自力で私の元へ戻る状況を勝ち取る可能性はない。だから、おまえのために私が動いて、家族の元に戻れるようにするよ」。この弟と同じように、私たちも、神の元へ戻る状況を自力で「勝ち取る」可能性はない。その贈り物を与えることが出来るのは、神だけである。

 

宗教は答えにはならない

兄は畑にいたが、宴会が開かれているのを知って、家に入ろうとしなかった(ルカ15:25〜28)

兄は、物理的には父親の近くに居たかもしれないが、父親の思いとは遠く離れていた。兄の姿は、パリサイ派のラビたちのそれである。兄が腹を立てた本当の理由は、相続財産の子牛が一頭減ったことにある。父親はプライドを捨て、外に出て来て兄を説得した。しかし兄は、不平を言い、人前で大騒ぎをして、祝宴に参加することを拒んだ。父親にとって大切なことはただ一つ、罪を認めて悔い改めることだけだった。ところが兄は、自分は完璧であると考え、「戒めを破ったことは一度もありません」と言い張った。

このたとえ話には皮肉がある。罪を犯した弟は自分の罪を認め家に帰り、父親の心と一つになった。ところが兄は、祝宴の外(神の国の外)に取り残された。兄と父親の間に距離が出来てしまった理由は、兄が悪事を働いたからではなく、むしろ「善行」を行ったからである。彼が家族の元に留まったのは、財産が欲しかったからだ。実は、彼は父親を利用していたのである。この兄は、自分は善の基準に合格出来る義人だとの自己認識を持っている人たちの代表である。しかしイェシュアは、神の国に入る唯一の方法は、自分の弱さと罪を認めることだと教えられた。もし、自分たちで編み出した規定を守れば神の国に入れると考えているなら、その考えは間違っていると語られた。イェシュアによれば、宗教は天の御国に入る扉を開けることが出来ない。このことこそ、イェシュアと新約聖書が私たちに教えているメッセージである。イェシュアは、十字架の死を通して、このメッセージを示して下さった。このメッセージは、宗教的指導者たちにとっては、持っていた権力と支配を失うことになるので、不都合なものである。なぜなら、イェシュアの死によって、ユダヤ人と異邦人、罪人と義人、男性と女性、奴隷と自由人、富める者と貧しい者の区別がなくなったからである。私たちは誰しも、神に背を向け走り去っている弟か、自分は正しいと考えている兄か、どちらかの人間である。完璧な人間は一人もいない。全員が罪人だ。私たちは完璧ではないから、完璧な判断が出来ない。だから、自分の中に解決策は無く、私たちの罪を贖うための完璧なメシアが必要なのだ。

まとめると、神は私たちのために、既に御業を成し遂げて下さった。イェシュアは、ご自身がメシアであると自己啓示し、最も豪華な長服を私たちに着せて下さった。ご自身は、裸のまま十字架で私たちの罪を贖う死を遂げて下さった。こうして、このお方が完璧な神の国への鍵を私たちに与えて下さったのだ。

この鍵を、神が私たちのために与えてくださったものだと認める時、私たちは全員が「同じ穴のむじな」であり、誰一人として人を上から目線で見る権利などないことが分かるだろう。そして、自分たちと他者との間に壁を作るのではなく、他者を愛するように精一杯努めるようになるだろう。神は、私たちの罪のためにご自身のいのちを与えて下さったのだから。

Religious vs Sinners (Parable of the Prodigal Son)

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