
#16 メシアニックジューはカルト集団か?
アシュドデ市のラビ長は、私達メシアニックジューのことをヒトラーより悪い連中だと言う。ラビ・アムノン・...
ラビ・ヤーコブ・アデス(訳注:没1963年、エルサレムのユダヤ教神学校校長)は、こう記している。「律法の価値と私達の魂の価値を知れば知るほど、私達は、主の働きを進めていく為の力を持てるようになる。だからこそ、私達は律法と神の命令の優れた価値を知る必要がある。ヴィルナのガオン(訳注:18世紀にリトアニアで活躍した天才と言われたラビ)は、こう説明している。天地創造、律法の賦与、イスラエルの民の選びという計画全体の目的は、私達が主とつながり、主がほめたたえられる事である。そして律法は、神と人を仲介する手段であり、全世界で最も重要なものである。律法の学びと神の命令を守る事に比べたら、全世界も取るに足りない。律法にまさるものなど何一つ無いからだ」(Yeshiva.org.il)
私達は、聖書に記された律法は、神のことばだと信じて疑わないが、このようなラビ達の言葉やこれまで数千年にわたりラビ達が語ってきた事から感じるのは、トーラー(律法)の命令こそ神が最も重要視する中心的なものであるとの印象を彼らが持っているということだ。しかし、モーセ五書の主要ポイントが神の命令だとの彼らの見解に、神は同意して下さるだろうか。
賢人達によれば、律法はエデンの園でアダムとエバに与えられ、アダムは一日中、律法の学びにいそしんでいたという。ラビ・ハイム・カニエフスキー(訳注:現在90歳、超正統派ハレディの高名なラビ)は、こう記している。「最初の人アダムは、律法を学んだ。世界は律法のために造られた」
映画を観た後、なんだかよく分からなかった、何か見逃した部分があって物語の一部しか理解できなかったのかなと感じたことは、あるだろうか。その映画をもう一度観てみると、最初に中心テーマだと考えたものが的外れで、本当の中心テーマは別にあることに気づいたことは、あるだろうか。読者の皆さんは、ちょっと待って、そのことと律法になんの関係があるのと思われたかもしれない。モーセ五書(律法)は、神の導きで記された、読者に強い印象を与える芸術作品である。最高傑作の文学作品と同様に、モーセ五書の中心的メッセージもまた表面には表われず、その下に潜んでいる。
深い芸術作品を味わうためには、作品の全体像を視野に入れながら、作品の底流から表面までをあらゆる角度から芸術的に分析しなければならない。優れた物語を理解するためには、物語全体を捉えつつ、著者が提示する詳細な部分―特に、重要性に乏しいと思われる部分―にも注意を向ける作業が不可欠である。モーセ五書(律法)もまた、このアプローチで向き合う必要がある。モーセ五書の特徴的な構成要素とは、物語であり、これを無視する訳にはいかない。モーセ五書は、第一義的に物語の書なのであり、命令や規定は常にメインの物語に追加される形で出てくるもので、その真髄ではない。ここで問題となるのは、私達もまたラビ達の目でモーセ五書を見ていることだ。だから、モーセ五書を命令の集合体だと考えてしまい、命令と命令の間をつないでいるのが物語だという事実に気づかないままでいる。その結果、命令がある日突然与えられたと誤解してしまうのだ。
例えば、ラシ(訳注:賢人、11世紀に仏で活躍したラビ)は、こう問いかけている。「トーラー(モーセ五書)を、『この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ』(出エジ12:2)というイスラエルの民に命じられた最初の命令から始める必要は無かったのか」。ラシが問いかけているのは、次のようなことである。モーセ五書の始まりは、なぜ命令ではないのか。なぜ最初に、不要な物語がいろいろ出てくるのか。ラシがそのような質問をする理由は、彼もまた、他のラビ達と同様にモーセ五書の目的を理解できていないからだ。モーセ五書とは、時々物語が挿入されている命令の書ではなく、命令を含む一つの物語である。そんなことは、どちらでも大差はないと思われるかもしれないが、これが、ラビ達の解釈とは全く異なる方法でモーセ五書を説明する視点となる。モーセ五書の中に出てくる様々な物語は、一つの壮大な物語の枠組みを構成する要素だ。モーセ五書は、天地創造とエデンの園の物語で始まり、約束の地を征服する前のモーセの死で終わる。この枠組みによって、モーセ五書が全体で一つの書であることが示され、その結果、本当の中心テーマを分析し、発見することが可能になる。
では、モーセ五書の目的とは何か。他の文学作品と同様に、最初の場面が、その後に続く物語を理解する為の鍵となる。モーセ五書は、天地創造とエデンの園の場面で始まる。この場面で、二人の中心人物―神と人―が登場する。アダムは全人類の原型だ。エデンの園の場面で私達は、アダムのために、また人類のために、神が描いた理想的な状況に出会う。それは、人間が権威を持って被造物を支配し、人間同士が共存し、人間と神が直接的な関係でつながっているというものだ。しかし、すぐに物語は下降線を辿る。アダムとエバは任務に失敗した。彼らは、被造物に対して権威を持って行動するのではなく、逆に、誘惑の象徴である蛇にそそのかされ、創造主に反抗した。その結果、罪が世界に入り込んだ。神はアダムとエバを罰し、呪いを与えられた。その呪いは、彼ら二人と神との直接的な関係、彼ら二人の人間同士の関係、そして人間と被造物の関係にまで及んだ。
これ以降の章でも、人類の堕落が引き続き記されている。最初の殺人事件が起こり、さらに、ノアの時代には人間の心の邪悪さが極みに達したため、神は人類を消し去り、ノアという新しい英雄を用いて人類をリセットすることを決意された。ところが、アダムと同様にノアも失敗する。人類は再び堕落の道を辿り、その極みとしてバベルの塔事件が起こる。この事件では、神は人類を全地に散らすことを決意された。次に登場する英雄は、アブラハムである。彼は、原罪の影響を克服して、神の下した呪いに終止符を打てるのだろうか。
アブラハムとの契約締結は、モーセ五書(律法)の転換点となる。たとえ下降線を辿ったとしても、アブラハムと彼の子孫は、地を満たし、征服することが出来るようになる。神は、アブラハムを祝福し、彼の子孫を通して世界の全ての国々と民族が祝福されるようになると約束された。原罪という問題の解決策も、彼の子孫を通して来るようになる。ユダヤ人は、このお方が後になって「メシア」という名前で呼ばれるようになる存在だと考えた。旧約聖書の預言者や王が預言したのは、このお方のことだった。このお方にまさる者はない。このお方は、律法にまさり、神のはかりごとの核心であり、罪深い人間の心に対する解決策である。賢人達も、次のように認めている。「これまでに活動した預言者達は全員、メシアの時代を予告してきた」(タルムード 1992、p22)
神の命令は、本来イスラエルの民にとって聖い生活を送る方法を理解する為の指南役となるものである。律法の目的は、罪という根源的問題に対する解決策となるお方へと私達を導くことである。このお方が律法の目的であり、このお方を通してでなければ、私達は神との直接的関係を元通りに立て直すことが出来ない。
ラビ達がするように、天地創造の物語の中に律法をねじ込もうとしても、論理性に欠け、矛盾が多数出て来てしまう。例えば、賢人達によれば、アダムは獣と性行為をしたとされる。これ自体が気分が悪くなるような教えであるが、私達の見解では、これは矛盾に満ちた教えでもある。もしモーセ五書の目的が律法の命令であり、彼らが言うようにアダムが本当に最初から律法を学んでいたとするなら、彼は、出エジ22:19にある命令「獣と寝る者はすべて、必ず殺されなければならない」を知っていたはずである。そのアダムが獣姦の罪を犯したと主張するのは、矛盾以外の何ものでもない。
結論として、聖書の最初の五書の目的は、命令ではなく、メシアである。
松村慶子訳 中川健一監訳
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